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文献に見る守口漬・守口大根
 のページの表内記載事項は各種文献から引用して制作しました。説明文にとどまるものや、現在の仮名遣いになっているもの等混在していますが、文献の記載を忠実に引用していますのでご容赦下さい。
1.大阪府守口市編
 口大根は、江戸時代以前から河内国茨田(まつだ)郡守口(現在の大阪府守口市)付近で栽培されていた 葱(ねぎ)のように細長く、成長すると1m以上にもなる砂地性の特殊な長大根がその前身とされている。 この長大根は大坂天満の天満宮鳥居前(最近までの天神筋町=俗称九丁目筋の古名が宮の前)でも栽培され ていたので、「宮ノ前大根」又は「宮前大根」とも呼ばれていた。 この「宮ノ前大根」は、今はその存在が確認されないが、「守口漬」に利用されてきたので「守口大根」と呼ば れてしまったものと思われる。 つまり、河内国茨田郡守口で作られていた長大根(宮ノ前大根)や茄子・瓜・刀豆(ナタマメ)等の蔬菜類の
糟漬-> 守口漬->守口漬に使われる大根->守口大根
といった順序で、「守口漬」という名前の方が「守口大根」という名前より先に存在したと思われる。 「守口漬」の記録は、天正13年(1585年)に豊臣秀吉が京と大坂との還往の途次に河内ノ国守口ノ地に休 息した折、本陣吉田八郎兵衛(庄屋源兵衛?)が漬物を献上したことから始まる。秀吉は、その格別な風味を 賞賛して「守口漬」と命名したと言われている。 下記の年表からわかるように、「守口大根」の初見は「守口漬」のそれより1年遅い。 明治に入って愛知・岐阜の生産の増加とともに衰退し、今では関西の「奈良漬」の一素材とされてしまい、守 口漬という名前は残っていない。なお、大坂の出雲堂本舗が明治初年に発刊した「漬物早指南」には、”守口大根粕漬”として「是も大根を湯 にくぐらせ一日ひにかわかし粕に塩を混ぜて漬けかるく押をおく」 とあり、現在の名古屋の「守口漬」の製法と大きな違いがある。
西  暦 和  暦 記載事項 記載書物 著者等
1586年 天正14年4月5日 九州征伐の前年の天正14年〔1586年〕年4月5日、秀吉公が、援を求めて上坂した大友宗麟を、 黄金の茶席で饗応した際の懐石の献立を記載した中一 カウノ物 モリグチ大根 利休の消息文 元桑名藩主松平家旧蔵、現在は池田市の逸翁文庫所蔵
1637年 摂津天満宮前大根 毛吹草 松江重頼
1697年 元禄10年 又宮ノ前大根トシテ大阪守口ノ香ノ物ニスル細長キ牙脆(はもう)キ物アリ 農業全書蘿蔔(らふく)第一項 宮崎安貞
1709年 宝永 6年 摂州天満ノ邑ノ辺宮ノ前大根ト称スルアリ形小ニシテ長シ河内守口ニ是ヲ以テ糟漬トス 大和本草 貝原益軒
1713年 正徳 3年 細大根ノ香ノ物ヲ出ス。守口漬ト名〔ツ〕ク 和漢三才図会「(日本)河内、茨田郡、守口」の項 寺島良安
摂州天満ノ宮ノ前相州波多野共ニ細身者ヲ出ス長サ二尺許リ周ハ一寸半可カリ而本末均シク白紐ニ似糟糖ニ漬香物ト為宮ノ前者脆ク波多野ハ硬シ 同上「葷(くん)草類・蘿蔔」の項 同上
香ノ物(守口漬・守口大根) 同上「河内国産」の項 同上
1714年 正徳 4年 摂州天満ノ邑ノ辺宮ノ前大根ト称スルアリ形小ニシテ長シ河内守口ニ是ヲ以テ糟漬トス 菜譜 貝原益軒
1744年 延享 元年  守口漬御香の物〔は〕、前々より所之名物ニ而御座候ヘ共、只今ニ而ハ商いニ不仕候 河州茨田郡守口町明細記 守口宿本陣・庄屋兼帯 吉田家旧蔵
1801年 享和 元年 名産糟莱(つけもの)、
守口村より出る。長莱蔔(ながだいこん・蔔は正確にはくさかんむりに服という字)、茄子、瓜、刀豆(なたまめ)の類を、多く糟蔵(つけもの)にして、四方に貨(う)る。これを守口漬(漬の字は酉へんに奄という字を使用)といふ。
河内名所図会
1863年 守口漬の作り方
大根を湯にくぐらせ、一日ひにかわかし、粕に塩を少しまぜて漬けてかるく押しておく
四季漬物塩嘉言
1861年 文久 元年 偖亦(さてまた)、長莱蔔(ながだいこん・蔔は正確にはくさかんむりに服いう字)の糟漬は、当所の名物にして、世に守口づけ〔原本には酉ヘンにツクリを奄としたむつかしい字を使用〕と号す。風味殊更に美なり。因云(ちなみにいふ)、此の長菜蔔は、生(なま)なる時は宮前莱蔔(みやのまえだいこん)と号し、往昔(いにしえ)は、摂州天満天神の宮前いまだ田圃なりし時作り出せしを以て、宮前の号あり。然(しか)るに、浪花繁栄に随ひ、漸(しだい)に土地ひらけて、今は宮前はいふも更なり、宮後(みやのうしろ)も数十町人家とな、此大根も当時は長柄(ながら)の辺(ほとり)にて作るよし。然れども、尚、旧名(もとのな)を用ひて、宮前莱蔔と称す。
さるを、此守口に求めて、糟蔵(かすづけ)に製し、守口漬といふ。
淀川両岸一覧 上り船之部(上) 大坂河内屋喜兵衛他二軒
1865年 慶応 元年 閏5月20日 慶応元年閏5月20日の條
一 伏見役宅、御旅館より、御乗船、淀川通〔りを 御下航〕、備前嶋御上り 場より 御上陸、
……大坂御城え 入御遊ばされ候。
一 八ツ半過〔の〕時、佐田辺 御通船……。
……喰わん〔か〕あん餅並に〔守口漬〕御香の物献上
昭徳院殿(十四代将軍 徳川家茂公)御在坂日次記
1868年 慶応 4年 正月 下記の通り、守口宿の世話役が、征討大将軍小松宮様に陣中見舞いとして、守口漬二樽を進上した記録あり
守口宿本陣
        吉 田  八郎兵衛
        問 屋  五郎兵衛
          同   為五郎
        宿年寄 清兵衛
        庄 屋  太兵衛
  一 守口漬 弐樽
 右今般  御陣中為
御機嫌伺 献上有之神妙之
分遂披露相収処如件
     大将軍宮
       本多伊勢介花押
慶応四年
 辰正月
       矢守大和介花押
1868年? 明治 初年 (四季漬物嘉言と同じ?)「守口大根粕漬の製法」として是も大根を湯にくぐらせ一日ひにかわかし粕に塩を混ぜて漬けかるく押をおく 漬物早指南 出雲堂本舗(大阪)
1910年 明治43年 河内名産 守口漬

抑(そもそも)此(この)守口漬といふものぞ時干天正十三年三月上旬豊臣秀 吉公當驛御通行有って旧本陣吉田八郎兵衛方に御一泊 留為在其際我が先祖長漬大根と唱え御御膳の向に備へし を風味御思召に叶ひ重寶仕給ひける哉更に守口漬と名 称を下し給ふ其後守口驛の物産の名称高く驛問屋役人 吉田為太郎より高貴の御方に御献上且萬國へ賣弘め來る 猶亦御一新の際征討將軍公大阪御鎮府御本陣之旧問屋 役人より献上仕銘産にして諸君子皆能(よく)知り給ふ処なり 亦昔品支那康煕帝日本風の茶(えだにょう支に萬という字)を開きこれを口取りに用 ひ給ふとかや今猶口碑に傳へ残りぬ其者たる彼朱氏の 守口如瓶の古説により清らかなる瓶に漬て製す能(よ)く人 の口を守り養ふの好風味を呈し茶に酒に能雪月花のとも を饗し或は旅客行厨の一助とされば這回更に一層精製 して樽に様子も御望に任せ價格も又塵少に差上候問萬 國を緒君子御求めあらん事を冀(こうねが)ふと言爾(しかり)       

    花の香やしやれを
       風雅も笑ひ顔
    蘿蔔の齢を
       延る薫りかな
    栄へ行蘿蔔
       長き噺し哉
    河内國茨田群守口驛

名産守口漬製賣所
「守口町概況一班」の採録文書(当時商品として守口漬を製造販売された徳永信太郎氏の書上) 守口市役所
2.岐阜市編
 良川は、かつて岐阜市の長良橋下流付近から分流し、これらの分流に囲まれていた早田・正木・則武・島地区は、長良川が作った扇状地の末端に位置する。
この地区には、肥沃な砂壌土が厚く堆積し、根菜類の栽培に適した所であり、江戸時代にはこの地方の大産地として知られていた。
この地方で栽培された細根大根(ナガラダイコン、ホソリ大根、イトヅクリとも呼ばれた)は、江戸時代には干大根(美濃干大根)として、12月上旬に収穫されると稲架(はざ)に掛けてよく乾燥させ、これを藁(わら)で擦って飴色に仕上げられた。これは主に正月の汁の具や酢の物として食されたと言われている。
明治初年の「増補岐阜志略」には「干大根」の記載はあるが「粕漬」の記録は見られないが、明治9年の「日本物産史」には「糟漬トシテ最佳ナリ」との記載がある。
このことから、明治初期頃に美濃干大根の粕漬が作られ始めたと思われる。
岐阜で初めて「守口漬」の名前が記録されているのは、明治23年の「岐阜美や計」で、美濃干大根が守口漬に最適であったため、名古屋や岐阜での守口漬の発展とともに品種改良され明治22~23年頃には、現在の大根の原形が出来たと言われている。
また、ほとんどが「守口漬」に用いられるようになったので、美濃干大根も「守口大根」と呼ばれるようになったと思われる。
▲岐阜特産・守口大根の出荷風景
(昭和31年2月)
( 「写真集 岐阜百年 中日新聞社 )
西暦 和暦 記載事項 記載書物 著者等
1744年~1748年 延享年間 「干大根濫觴」として
慶安の比(1648~1652年)より、ほし大こん久屋町、上大久和町へ被仰付指上る由。
岐阜志略 松平秀雲
1765年 明和2年 干大根 両道中懐宝図鑑(全)合瀬の項 須原屋茂兵衛
1789年 寛政元年 作物は麦、稗(ひえ)、黍(きび)、粟、麻、大豆、小豆、大根、芋を第一に作れり、專(もっぱら)細大根を作り干大根に製して諸國へうりつかわす、又此村の地は岐阜町より多く扣居て菜園物を多くつくれり、眞土砂がかりたる土地にて牛蒡、芋、人参、茄子、大根などよく出來ると也 濃州徇行記
厚見郡早田村の項
樋口好古
1868年? 明治初年 ●岐阜名物
干大根
干大根の儀は、早田、池上、忠節外近邊村々にて製し岐阜へ持出る、依て岐阜名物と成る
増補岐阜志略 岐阜県庁
1873年 明治 5年 美濃国名産品の産地、生産量(農林産物)
(品名)細根干大根
(産地)厚見郡近嶋村外
(1か年製出)155万本
(価格及び単価)704.475円
岐阜県史
通史編
近代 中
岐阜県
1877年 明治 9年 「ナガラダイコン(ナガダイコン、ホソ子ダイコン、水蘿蔔)」として厚見郡近島村等ノ産ニシテ、形牛蒡ノ如久最細長ナリ、砂地ヲ?ビ畠を高クシ之ヲ作ル以テ堀リ易カラシム、糟漬トシテ最佳ナリ、又乾カシテ四方ニイク、東京ノハダナ大根、相州鎌倉ノハダノ大根ノ類ニシテ、此他諸国ノ名産アリ。 日本物産史(前編・美濃部中)穀菜果實民用類の項 伊藤圭介
1899年~1900年 明治22年~23年 現在の守口大根の原形が出来上がり、そのほとんどが守口漬用に用いられるようになったため、美濃干大根も「守口大根」と呼ばれるようになった
1890年 明治23年 守口漬は、岐阜島に産する蘿蔔(だいこん)を以て粕漬となしたるものなり。この蘿蔔は、細長くして凡そ二尺七・八寸あり 岐阜美や計 長瀬寛二
岐阜県図書館蔵
1902年 明治35年 物産
岐阜市の物産として紹介すべきもののは種々ありと雖(いえど)も就中岐阜縮緬、相良縫、岐阜提灯、岐阜團扇、傘(雨傘繪傘)、紙布巾、コッピー紙、紙、涼團、油團、鮎粕漬、うるか、筏はえ、守口大根粕漬、松風(菓子)、雪達摩(菓子)、鮎菓子、金華山焼(陶器)等を其最とす
岐阜県案内全(昭和61年復刻) 岐阜県郷土資料研究協議会
1915年 大正 4年 江戸時代に尾張藩へ献上され、また岡崎の八丁味噌を以って味噌風に仕立て珍重したとの記載あり 美濃国稲葉郡誌
1956年 昭和31年 商業的農産物
岐阜周辺では干大根が有名です。干大根は1650年(慶安頃)岐阜へ上納を命じているから、栽培はそれ以前からです。(岐阜志略)ここに干大根と呼ぶのは、普通の大根を乾したもののことで無く今日守口大根と呼ばれているもののことです。1750年代(宝暦年間)には、根が細長く味が良いというので、長良の近村から、また厚見郡萱場村などの七郷で盛んに栽培しています。乾して岐阜へ売出します。(濃陽志略)18世紀末の厚見郡池之上村・萱場村・忠節村・早田村などでは換金作物としては此の細根大根にたよっていたのです。(濃州徇行記)
岐阜県の歴史
-近世-
吉岡勲
3.愛知県(丹羽郡扶桑町)編
 在では、最大の産地となった扶桑町での守口大根の栽培史は浅い。そのため、黎明期の記録は、愛知県教育委員会が昭和54年度郷土学習教材として作製した”郷土を知るシリーズ”愛知の伝統産業「守口大根と守口漬」という16ミリ映画の利用の手引きに詳細に記録されている。この手引きは、現在(1997年8月末)私が入手した、守口大根・守口漬に関する文献・書物の中で最も詳しく、史実に沿った記録がなされていると思われる。守口大根・守口漬の歴史をはじめ、扶桑町山那地区の風土や当時の4Hクラブメンバーの営農青年達の守口大根導入・栽培に賭けた並々ならぬ努力により、岐阜市に代わる最大産地としての地位を獲得するまでの記録は、30数ページの冊子に詳細に記載してある。この冊子は愛知県での「守口大根・守口漬」を知る上で欠かすことの出来ない一冊である。そのため、1997年5月、愛知県教育委員会に引用(一部抜粋)可否の問い合わせをし、著作権を侵害しない範囲での引用許可を得、この冊子の一部を紹介する。
西暦 和暦 記載事項 記載書物 著者等
1915年 大正 4年 漬物は本市名産の一にして、近郊一帯蔬菜の栽培に適し、其産額豊富にして、愛知県御器所、千種、呼続、東山の各町村に於て、年々の産額平均二十余萬円に上り其の本市に移入するもの頗(すこぶ)る多し、然れども是皆下等品に属するを以て、更に精選なる良品を出さんと欲し、明治十五年依頼、山田才吉は之を味醂粕漬となし、博覧会、共進会等に出品し、褒賞を得、益々改良を加え、守口漬、宮重大根、味醂漬、青瓜漬と称し、当市の産物となるに至り、之が製造販売するもの其数を増し、毎年平均産額十萬円余あり、 名古屋史
産業編
名古屋市役所  
1925年 昭和14年 守口大根漬は岐阜県葉栗郡則武・島両村の名産であり 愛知県史第4巻 愛知県
∴栽培の沿革
昭和26年 4Hクラブ員が早出しごぼうの後作として試作 種子が極めて悪く、良品生産出来ず
昭和27年 大西氏(4Hクラブ顧問)が、愛知、岐阜両試験場の指導を受け試作・栽培 漬物用の守口大根生産出来る
昭和28年 クラブ員と有志19名により24aの作付け 一級品6,400kgを生産
12月に守口大根生産組合を結成
昭和29年 岐阜県可児郡可児町(現在可児市)に、ほ場を借地 自家採種の拡張、優良種子確保、品質改善を図る
昭和30年
昭和31
愛知県耕種改善試作ほとして栽培改善の指導を受ける 優良品の生産並びに生産者の意欲を増進
昭和33年 岐阜県産地(岐阜市)との間で守口大根連絡協議会を結成 岐阜市組合と共同での栽培面積の決定、計画栽培
昭和42年 栽培面積16.3ha、総生産量578トン 岐阜市の生産量を追い抜く
1.犬山扇状地と土地利用
 曽川は、犬山市北部を扇頂とする半径約12km、面積約100k㎡の犬山扇状地を造った。この扇状地は、一連の中部傾動運動(濃尾平野西部が沈降し、猿投山を中心とした東部山地が隆起する地盤運動)で隆起し開析された扇状地である。木曽川はこの扇状地に3つの派流(細長い旧河道)を刻み、扇状地上には、細かな砂壌土を厚く堆積した。このため、扶桑町や江南市などの丹羽郡の市町は、派流によって出来たわずかな水田を除くと、ほとんどが桑塩か普通畑であった。この地域は、古くから分派流の洪水に悩まされてきたが、慶長年間に完成した「御囲堤」で洪水から逃れることが出来るようになり、開発も進んだ。
江戸時代初期には広く畑地や松林(やま)は残っていて、米作はほとんど行われなかった。そのため、この地域では早くから米に代わる商品作物として、藍・綿・え・麻・茶などが栽培されていた。江戸時代中期の濃州洵行記(寛政4年:樋口好古)には「畑地バカリニシテ一面砂地ナルタメ、茶、桑ヲ栽培シ、農事ノ余カニ養蚕ヲナシ、繭ヲ製シ処々ヘ売出セリ」とあるように江戸時代後期にかけては、徐々に桑畑も増え、明治中期以後になると松林は桑園へ転換されることが多くなった。また、栽培作物も蔬菜類となり、昭和初期には甘藷や大根、里芋、牛蒡、人参などの根菜類が多くなった。その他、尾北地方を中心に明治後半から蔬菜類の採種組合が出来始め、この地方でも、宮重大根などの採種をする農家もあった。
2.守口大根の導入と生産組合の結成
 前は、養蚕業を中心に生活してきた扶桑町山那地区も戦時統制下における食糧自給政策強化などで桑園は著しく減少した。また戦後の養蚕の不振や食糧確保から、農家はこれまで副業としてきた蔬菜栽培に依存する傾向が強くなった、各農家は、早出し牛蒡や宮重大根などを収穫し、朝早く大八車で遠く離れた枇杷島市場に出荷して現金収入を得ていた。
このような戦後の混乱期に農家の青年たちを中心として新しい農業経営を目指す山那4Hクラブの人達が地元出身の枇杷島市場の仲買商、大矢多助氏や、その紹介による漬物業者のすすめもあり、守口大根の栽培を試みることになった。しかし、当時岐阜の守口大根の種子は、門外不出であったため、昭和25年頃から有志7名で種探しに奔走した。その結果、昭和26年業者などの援助でやっと守口大根に近い種子を少量手に入れ、これを早出し牛蒡の後作として4aの土地で試作を始めた。 最初は、商品として価値のないものだったが、昭和27年7月、ある程度の目安がついたことから有志19名で「扶桑町守口大根生産組合」を結成し、愛知県西春日井郡清須町の愛知県園芸試験場や岐阜県農業試験場などの指導で品種改良及び種子の量的確保に着手した。翌年12月、不揃いだが0.24haの土地で6.4トンを収穫し、浅田康行氏が全てを購入した。このことが、今日の産地としての地位を得る大きな要因となった。
3.石黒嘉門氏と品種改良
 の年、浅井忠雄氏所有の草生地2aに種子確保のための共同播種圃場を設定し、愛知県から派遣された石黒嘉門技師の指導で、岐阜県可児郡可児町(現在の可児市)水野幸一氏の水田5aを借用し、優良母本の選定による品種改良と自家播種の拡大に取りかかった。また、昭和31年、愛知県地方振興事業で耕種改善試作圃場の指定を受け、岐阜県可児町に原種圃場5a、山那地区に採種圃場20aが設定された。その後品種が崩れてきたため、昭和44年、愛知県の補助で共同育苗施設を作り、再び採種圃場を設置して優良母本で原種回復を目的とした母本選択を行った。
優良母本選択は、12月初旬に収穫された2,000本の中から、愛知県農業総合試験場で技師により10本が選択され、これを試験場内のビニールハウスで採種した。翌年これを組合の世話人で播き、収穫された母本2,000本の中から前回と同じ方法で採種した。この結果、優良品になりすぎ、病害虫に弱いといった欠点が現れたので、この方法での採種は昭和47年に中止され、以後2,000本の中から3割を残して捨て、組合の世話人が植えて、5月下旬播種し、一戸当たり2合づつ分配して個人の種子を採種する方法となった。
4.生産の拡大
 和29年には24トンを生産。翌年、愛知県農務課二村技師の指導で、名城会(名古屋市内の漬物業者団体)との契約が成立したことから、生産量は一挙に前年の3倍に当たる74トンへと増大した。また、販路の拡大にも努力がなされ、前年に愛知県大阪斡旋所に見本を送ったことから、注文が取れ、昭和32年には大阪へ23トンが出荷された。
このように生産量が伸びるにつれ、都心部にある漬物業者は地価の高騰で工場や倉庫の増設が困難になったこともあり、委託管理や二次加工までを地元農家に要望することが多くなった。また、業者自体も地元に倉庫を設け、運送費・労働費の節約を図ることもあった。昭和32年には、組合単独で地区内に収容能力約60トンの加工場を建設。
昭和34年9月の伊勢湾台風で加工場が全壊。昭和35年、加工場再建とともに同規模の加工場を新設し、昭和37年までに、この地区で生産される守口大根のほとんどが地元で加工可能となった。
また安定した産地となったので、昭和33年、愛知県の指導で岐阜市の産地との間に「守口大根生産連絡協議会」を発足させ、漬物業者との価格決定を同一歩調で行うこととなった。昭和38年には、栽培面積18.2ha、生産量は681トンとなり、8年間で面積で5.9倍、生産量で9.2倍にもなった。
5.畑地灌漑整備事業と基盤整備
 曽川流域は、河川改修やダム建設の結果、著しい河床低下が起こり、この地区でも地下水位が5m近く低下した。昭和31年、愛知用水事業の着工に伴い、下流域の河床低下と水不足を補う目的で、昭和32年、犬山取水ダム工事が着工され、木津、宮田、羽島の三用水の合口とする濃尾用水事業が開始された。しかし、昭和37年7月下旬から9月下旬まで続いた干害では、9月上旬に播種する守口大根は大きな被害を受け、500mも離れた木曽川から水を運ばなければならなかった。この地区は、砂壌土が厚く堆積しているため、それまでも、雨が少ないと干害を受け、大雨が降ると土壌流出が激しかったので、同年秋、交換分合により分散した耕地を一カ所に集め、機械力利用を重点とする近代的営農方法の導入をはかる目的で、扶桑町土地改良区が設定された。これに伴い昭和40年1月、山名地区の第一期工事(49.0ha)が起工された。
上記の大干害これを契機に国・愛知県に対して畑地灌漑事業の促進を働きかけ、昭和41年6月、農林省は犬山取水口から旧宮田用水取入口までの暗渠工事にあわせて山名地区内に宮田用水を利用する揚水機2機を建設した。また、これに関連する県営事業としての幹線工事及び各地の団体(土地改良区)が主体の配管工事が行われた。
このように昭和41年の濃尾用水事業の完成に合わせて、この地区も畑地灌漑、基盤整備など守口大根栽培を中心とする農業経営への基盤づくりが着々と進められた。
6.農業構造改善事業とトレンチャーの導入
 口大根がまっすぐに細長く伸びるためには、播種前に圃場を1m近く掘り返す「天地返し(深耕作業)」が必要となる。小型のシャベル(エンピ)で掘り起こしていたが、真夏の「天地返し」は、たいへんな重労働で、一日2~3a耕すのが限界で、栽培農家の拡大には大きなブレーキであった。
昭和42年夏、この地区の共進会で耕作機械の実演会が開催された折り、土木用のトレンチャーが紹介された。これを、「天地返し」に使えるようにメーカーが改造し、扶桑町守口大根生産組合が昭和44年農業構造改善事業の一環として4台導入した。組合では、組合員を4組に分け、作業日程表を作らせ効率よく運用させた。昭和46年には、農家のアイデアで改良を加えた4台のトレンチャーが追加導入された。昭和48年、50年にも、愛知県から7割の助成を受け、それぞれ4台づつが導入された。また、組合としても、トレンチャーの個人購入を奨励し、購入者には1割を助成し、積極的に深耕作業の省力化に努めた。トレンチャーの導入は、これまで手掘りで10a当たり160時間を要した「天地返し」を僅か10時間余りに短縮することに成功した。これまでの重労働から解放された著しい省力化に加え、品質の向上に成功し、兼業農家も守口大根の栽培が容易になり、栽培農家がさらに増加することとなった。 トレンチャーの導入以外にも、昭和44年の加工場増設(収容能力300トン)、シーダーマシン(播種機)、レインガン(散水機)、加工場用フォークリフトの導入が行われ更に省力化が進んだ。また、昭和46年には、土壌改良と地力維持を目的に、畜産農家(養豚・酪農家)と提携して扶桑町厩肥利用促進協議会が結成された。
7.最大産地の成立
 来の産地岐阜市では、岐阜国体前後に長良川以北の都市化が進行し、手掘りでの「天地返し」や収穫の重労働が敬遠され、作付け面積は昭和37年の35.4haをピークに減少傾向を示し始めた。 昭和38年から48年にかけては、生産過剰となり生産調整が行われた。昭和42年には栽培面積16.3ha、総生産量578トンとなり、扶桑町が岐阜を初めて追い抜いた。昭和43年は、単位収量(10a当たり)約5トンと過去最高を記録。また、この年4月には、愛知県漬物協会奈良漬部会への加入を機に「扶桑町守口大根生産組合」へと改称。しかし、昭和46年には、総生産量1,055トンの空前の大豊作となり、昭和47年・48年の2年間は三割の作付制限が実施された。この2回にわたる生産調整は、岐阜の農家にとって大きな打撃となり、栽培面積は著しく減少した。
一方、扶桑町では、基盤整備やトレンチャーの導入、品種改良などの結果、岐阜と同水準の土地生産性に達し、省力化の進展とともに栽培農家も増え、岐阜での減少分を補うことが可能となった。このため、昭和47年以後の生産調整は、扶桑町がその7割を生産することになり、岐阜に代わって最大の産地となった。
扶桑町での最大産地の形成に至るもう一つの背景は、前述のように加工場建設に積極的であったことがあげられる。守口漬は守口大根収穫から製品完成まで2年以上の期間を要することから、名古屋市内の漬物業者は貯蔵倉庫の確保が重要な課題である。また、運送費や漬け替えに要する労働力などを考えると、産地での加工が最も効率的であった。一方、産地(組合側)としても、構造改善や、県の助成で加工場建設が可能で、業者からの委託による約2回の付け替えの労賃、倉庫使用料、維持費などが組合の収入になるといったメリットもあった。ここに着目し、扶桑町の組合では、当初から加工場建設に積極的で、昭和53年には、この地区で生産される8割以上に当たる800トンが加工できるようになった。愛知県扶桑町という消費地(名古屋)に近い地の利に加えて、加工場の建設は、漬物業者にとって経済的であり、信頼を高めることとなった。 
【蘿蔔】らふく だいこん。すずしろ。
【蘿】ラ・つた   (解字)形声。羅(ら)が音を表わす。草の名。 
(字義)1.つた。かずら。「女羅」。 2.つのよもぎ。
【蔔】フク・ヒョク (解字)形声。畢(ひつ)が音を表わす。
          (字義)だいこん。
【参考資料】
・愛知の産業「守口大根と守口漬」利用の手引(愛知県教育委員会)
・守口大根・守口漬(守口市文化財保護委員 吉田義昭著 守口市役所市民部商工農政課発行)
・地域文化誌「まんだ 6号 守口大根・守口漬 菊田太郎」(まんだ編集部)
・愛知のやさい(あいちのそ菜園芸編さん会 愛知県)
・日本料理由来事典(中) 川上行藏・西本元三朗(株式会社同朋舎出版)
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